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継続する営みのあり方<職業としての小説家>

ずいぶん前のことで細かい内容はすっかり忘れてしまったのだが、

あるブログが「村上春樹は一日に何文字書くと決めて、そのルール通りに小説を書き進めている」という例を出しながら、習慣について書いていた。

個人的に小説家のイメージは「書けなくて云々唸っている」時期と「寝食を忘れて書き進める」時期を繰り返して生きている、であったので、単純に「村上春樹はすごいな」と衝撃を受けた。

それは(確か)この本から引用された例だったと記憶している。

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

というわけで、「職業としての小説家」を読んだ。

この本は小説家になりたい人に向けたハウツー本ではなく、著者がどのような経緯で小説を書き始めたか、どのような思想で専業小説家をしているのか、が書かれたエッセイである。

しかしながら、小説家に限らず、なにかを職業にする心構えとして、とても参考になるエッセイだった。

著者が述べることには、「小説を書くこと自体はそれほど難しくなく、 難しいのは小説を 書き続ける 」こと。 続けることの難しさはどんなことにも言える。 ゆえに、エッセイはどんな人にも響くだろうと思った。

以下、気になったところを備忘録がわりに書いていく。

それを仕事にすること

最初の小説を書いたときに感じた、文章を書くことの「気持ち良さ」「楽しさ」は、今でも基本的に変化していません。(中略) 正直言って、ものを書くことを苦痛だと感じたことは一度もありません。小説が書けなくて苦労したという経験も(ありがたいことに)ありません。 というか、 もし楽しくないのなら、そもそも小説を書く意味なんてないだろう と考えています。

いま何か続けていることがあるとするなら、それを(はじめて)見た・経験したときの楽しさが忘れられないからだろう。 そして、その楽しさが今でも続いているからだろう。

仕事にすることは自分にとって楽しく、意味があることが理想だと感じた。

オリジナルであること

誰だって「オリジナルな表現者」でありたいと願っている。

小説でもなんでも、オリジナリティーはとてもふわっとした概念で、それでいて重要視され、それゆえに苦しめられる存在だ。

競争社会では他と差別化することが重要視される。 もっとオリジナリティーが欲しい、と相手が批評したところで、何をもってオリジナルなのか、相手はちゃんと考えていない(に違いない)。

そもそも、オリジナリティーとは

時間の検証を受けなくては正確には判断できない

と著者は述べている。

ビートルズボブ・ディランだって今こそスタンダードな存在になっているが、一般的に評価されるようになったのは時間経ってからなのだ。

そして、評価されるようになるには、

ある程度のかさの実例を残さなければ「検証の対象にすらならない」

いろんな角度からみて、「ああ、やっぱりあれはオリジナリティーにあふれたものだったな」と過去を思い出してもらうことは、ポッと出の一発屋ではできない。

そんな時間と"かさ"が物を言うオリジナリティをどう確立するか。

「自分に何かを加算していく」よりはむしろ、「自分から何かをマイナスしていく」という作業が必要とされるみたいです。(中略) それでは、なにがどうしても必要で、なにがそれほど必要ではないか、あるいはまったく不要であるかを、どのようにして見極めていけばいいか? すごく単純な話ですが、「それをしているとき、あなたは楽しい気持ちになれますか?」というのがひとつの基準になるだろうと思います。

また、オリジナルな表現者になるにはどうしたらいいか。

もしあなたが何かを自由に表現したいと望んでいるなら、「自分が何を求めているか?」というよりむしろ「何かを求めていない自分とはそもそもどんなものか?」ということを、そのような姿を、頭の中でヴィジュアライズしてむるといいかもしれません。

著者は、小説を書かなくたって死ぬわけじゃないと考える。だから、書く気分じゃないときは他のことをする。 死ぬわけじゃないのに小説を書きたくなったら、小説を書く。

人はなにか目標があるときに、がむしゃらに、乗り気じゃない時も続けなきゃいけないと思ってしまうものだ。

でも本当はそんな必要はなくて、むしろ自分の内側からやりたいなと思ったとき、表現できるものが自分のオリジナリティーかもしれない。

批評をうけること

最初に述べたように、著者の長編小説の書き方は淡々としている。一日四百字詰の原稿用紙十枚だけきっかり書く。この繰り返し。

そして、そのあとに何度も書き直す。書き直すという「行為」が重要で、他人の意見を聞きながら、正気の人間が読めるものに直していく。 そうして時間をかけてできた作品は時間のクオリティーだけ「納得性」が現れる。

だから僕は自分の作品が刊行されて、それがたとえ厳しい–––思いもよらぬほど厳しい–––批評を受けたとしても、「まあ、仕方ないや」と思うことができます。 なぜなら僕には「やるべきことはやった」という実感があるからです。(中略) 「やるべきことはきちんとやった」という確かな手応えさえあれば、基本的に何も恐れることはありません。あとのことは時間の手にまかせておけばいい。

作品について判断するのは読者。

相手がどう思うかは自由だ。

だからこそ、作品を生み出した自分自身が「やるべきことはやった」という深い納得感を持っていなければならない。

批評を受けて傷ついたり、落ち込んでしまうのは、自分自身が納得できていないからかもしれない。 こうすればよかったとか、今ならもっと良いものができたとか、という気持ちが本当はあるのだ。

そうならないためにも、時間をかけてクオリティーを磨き上げる作業を怠ってはいけない。

さいごに

どんな華やかな世界でも、やっていること自体は単純でつまらないようにみえることばかりだ。 大事なのは、そんな世界で自分がなにを見出すか。

サクセスストーリーは、偶然からチャンスを掴んだ人間の話のように聞こえるが、 その人生が多くの人々に伝わっているのは、掴んだチャンスを軌道にのせ、継続したからなのかもしれない。

続く生において何が為せるのか。 自分が続けられることを続ける、というのがひとつの答えなのだろう。