交流がしんどくなるだろう未来の私へのポエム
前置き (この記事の趣旨)
>>しんどい<<
- このしんどさを鎮めるために考えを吐き出そう
- ポエムを書こう
ツイッターってしんどい。
たびたびこの感覚に襲われる。
生理前でイライラしてるんだろ。その意見(というか自分の内なる反論)はご最もで、「ツイッターやめたい」と思う感覚が過ぎ去るたびにそういう結論に至る。
でも「しんどい」の度になんでこんなしんどくなるのか、堂々巡りに考えふけるのは非常に非生産的だ。
ここに書き留めておけば「あ、そうだったねしんどくなるのはこういう理由だもんね」となって次のステップとか他のタスクに進める気がする。
- なんで自分語りが好きなのか
- 生理前に私が考えてしまうクソみたいなこと
- なんで「思う」「気がする」を連呼してしまうのだろう
は今後書いていきたい
ツイッターってハイブリッドだ
ツイッターはなんでも呟ける。
意見でもなんでも、法にふれなければ(ネチケット的なのは暗黙の了解ぽいが)いまんところ何呟いても大丈夫。
ツイッターは簡単にみられる。鍵アカウントじゃなきゃ誰の発言でもみられる。
それがツイッターのアドバンテージなんだと思う。
しかしながら簡単に呟けるので「私はこうだと思う」という意見と「私はこうだったらいいなあと思う」という希望的観測と「私はこうあるべきだと思う」という強めの主張が玉石混交している状況だ。
さらに玉石混交を簡単に見ることが出来る。それに対して簡単に、素早く言及できる。
だから希望的観測に強めの主張で言い返したり、強めの主張と意見とが対立したりする。力関係が成り立ってない議論がツイッターっていう不特定多数の大きな枠組みで行われる。いわゆる「学級会」的な事象はその例だと思われる。
私はそれが苦手なんだと思う。というか不快に近い。
結論の出ない話とか、「考え方は人それぞれ」みたいな結論になるでしょって話を永延と垂れ流されるTLをみてるとイライラしてしまう。
「私はこうだと思う」ならいいんだけど、その意見達を並べて「ほら私の意見が正しい」と強めの主張を正当化するのはちょっと違う気がする。(私にとって「ちょっと違う」と感じる類の議題はそもそも正しいとか正しくないとかの話ではない場合が多い、ツイッターで行われる「学級会」とはそういうものかもしれないが)
まあ何が言いたいかって言うと、強めの主張は短い文で見るのには向いてない。
これは次のトピックにも繋がってくので一旦話題を切る。
ツイッターってインスタントだ
ツイッターは短い文章しか呟けない。
だから短い中に意見がギュッと押し込められている。
つまり、強めの主張はより過激な発言になる。要約すると「自分と逆の主張やつ死ね」になる、みたいな。これは極論だけど、基本的に感情が剥き出しになる。
長文で感情剥き出しにするのも不快だけど、短い文の方がインパクトは大きい。
しかも、つぶやき程度の文字数ならば良く考えずに直接アウトプットされたような発言もできる。炎上するような発言とか。
ひとつのつぶやきはそのユーザーの考えのある断片でしかないのに、それが総意のような扱いになる、というのは非常に難しい問題だ。
時間とともに考え方は変化するし、よく良く考えたらこれ間違ってるな、と訂正することもある。にも関わらず間違ってる断片に注目されてしまうことだってある。
簡単に呟けるからこそ、簡単に呟けない、みたいな苦しさを時々感じてしまう。
今この瞬間の考えっていうのは(例え間違ったものだとしても)のちのちに繋がるんだから積極的にアウトプットしたいんだ。
それをツイッターでやるべきかどうかは別として。
(ツイッターってそういう場だよね?と考えてしまうのだ)
マウンティングをマウンティングする破綻
これはもはやツイッター関係ない話題。
マウンティングは語源通り、所有物で互いのランク付けをする、的な言葉。最近になって流布したのかな、おそらく。
本能的な行動だし、マウンティングなんて行動自体は(男女関係なく)昔からあっただろう。
でも何故こんなにも注目されているのか。インスタ映えとかで所有物じゃないものでマウンティングできるようになったからだろうか。
今までは学歴とか、会社とか、夫とかネットじゃない場所でのマウンティングはあったはずなので、その悪しき考え(理性的ではなさげな考え)がインターネットにやってきてしまったなという気持ちはある。
マウンティングが悪いとは言わない。誰だって比較して安心感や焦りを覚えるものだし。相乗効果だってある。民主主義が競争で成立ってる以上比較は否定出来ない。
しかしながら、なんとなくモヤモヤすることがある。
マウンティングしている状況を指して「こいつらマウンティングしてるわー」みたいなマウンティングする奴は一体どういう気持ちで発言してるのだろう?という点だ。
「マウンティングしてるわー」ってつまり「マウンティングしてない自分カッケー」的な気持ちなのだと解釈してるのだけど、その気持ちってつまりマウンティングじゃない?
マウンティングをマウンティングを以て否定するって、すごく論理が破綻しているんじゃなかろうか。
マウンティング≒ヒエラルキーの比較だと思っているので、比較してる時点で破綻してる気がする。
じゃあマウンティングを否定することは不可能なのか?
……この話は論点と外れてるから深く踏み込まないことにする。
結局どうすればいいんだ?
散々書いておいて明確な結論には至れない。
でも気づきはあった。
ツイッターって
- 情報めっちゃ流れてきて
- 比較するものがいっぱいあって、
- マウンティングの考えに落ちてしまうことがあって、
- ストレスフルになる場合がある
ってことだ。
そりゃそうだ。私以外と比較する前に自分の根っこがしっかりしてないと折れてしまう。
たぶん、ツイッターしんどいってなるのは「自分の芯がぐらぐらしてる」時なんだろう。
やはり、そういう時は1度自分だけになって、自分を振り返る必要がある。
ツイッターとかSNSとか、外からの情報を一旦閉じて、見つめ直してみよう。
そしてこんな風にまた、ポエムを書こう。自分の芯を思い出そう。
アウトプットって良いね。