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映画・本の感想とかメモとか考察とか

ボーイミーツガールは少女によって成立する<たんぽぽ娘>

 日本人の好きなSFが欧米のそれとは全く異なる、という話がSF小説の解説・あとがきではよくされている印象がある。 そこでいつも挙げられるのが「夏への扉」、そして「たんぽぽ娘」。

共通する要素。そう、日本人はロマンティックなSF大好きですよ!と言いたいわけだ。

かく言う私も恋愛要素があるSFは結構好きだ。エターナル・サンシャインとか(映画だけど)。

そういう訳で奇想コレクションの「たんぽぽ娘」、読みました。

以下、感想。

(蛇足)編者あとがきのナゾ

自分は後ろページのあとがきや解説から読んでしまう人間だ。 略歴や解説で作風をつかんでから読みたい人間だ。

で、いつものごとくあとがきから読んだのだが。

バート・ヤング、短編は面白いけど、長編はイマイチ……みたいな感想が書かれていた。

いらんがなその情報!これから自分は短編読むんですよ!

 この短編集が面白かったからって長編小説に期待しすぎちゃいけないよ、という注意喚起なのかもしれないが、こういうあとがきはやめてほしいなと思う次第。あと作品で「少女愛」が顕著になってるとか軽く批判しているのもナゾ。編者が批判するってのはどうなんだ?

 作者の性的嗜好(?)は個性でもあるし、好きなもの書いて何が悪いんだ、という気持ちになった。ボーイミーツガールは少女(ガール)がいないとボーイミーツガールじゃないのだから。

以上、蛇足終わり。

日本と軍人

 略歴をみて驚いた。作者は陸軍として戦後の日本にいたことがあるのだ! その影響か、日本の要素がある作品がいくつかあるらしい。

 神風はタイトルからわかる通り「神風特攻隊」を想起させる短編。正直、一番面白かった。宇宙戦争で特攻を命じられる青年、というセカイ系ラノベのような設定にも関わらず、なぜこんなにも鮮やかで美しいのか。

これぞボーイミーツガールSF。

晩年に書かれた作品とは到底思えない。

たんぽぽ娘

 みんな大好きたんぽぽ娘。読んで、なるほど好きになるわけだ、と思った。

 年老いた主人公視点で語られる"たんぽぽ娘"の姿は遠き日の青春を思わせる。タイムトラベルがうまく組み込まれたラブストーリーになっている。

終わり方もすごく良い感じ。

その他いろいろ

 この短編集はもちろん、ボーイミーツガールだけではない。SFならではのトリッキーなエンタメ作品、当時の風刺がきいた作品など。

 荒寥の地よりは貧しい家族とそこに一時的に住み込みをすることになった男の交流の話。SFっぽくなくて、アメリカの一時代を思わせる話。これもまたノスタルジックな印象を覚えた。

少年少女のストーリー

 ジャンヌの弓 は、こっちが気恥ずかしくなるほどにボーイミーツガール。ジャンヌと少年の話。清々しいほどハッピーエンド。ファンタジックでおとぎ話のような雰囲気だ。

おわりに

 未来的な世界が描かれるのがSF。宇宙を巡る陰謀とか、世界を股にかける冒険とか、広い世界舞台になるイメージが強いかもしれない。

 そんな中で、ロマンティックなSFが好きなのは、現実とは全く違う世界でも変わらない感情が、憧れた青春が描かれているからだ。

 ヤングの作品はノスタルジックで、どこか懐かしい気持ちにさせる。純粋な心、忘れてしまった遠い思い出のような作品たち。

他の短編集も読んでみたいと思う。

ジョナサンと宇宙クジラ (ハヤカワ文庫SF)

ジョナサンと宇宙クジラ (ハヤカワ文庫SF)

表紙も作風にあった感じで可愛い。

普段SF読まない人でも手を取りやすいんじゃないだろうか。

理想に過ぎないと知りながら、理想郷を思い描く<ヴィーナス・プラスX>

シオドア・スタージョンのヴィーナス・プラスXを読みました。

ヴィーナス・プラスX (未来の文学)

ヴィーナス・プラスX (未来の文学)

ユートピアSFでかつジェンダーSF、結構挑戦的な中編小説。

主人公チャリー・ジョーンズが迷い込んだ「レダム」は両性具有の人々が暮らす世界。 彼は元の場所にもどるために、「私たちの文明を評価してほしい」という条件を快諾するが……。

というのが本筋のストーリーなのだが、不思議なことに同時並行で現代のアメリカ家族の物語も描かれている。二つの物語はリンクしてる訳ではないが、本編のストーリーの見方に大きく関わってくる。

以下、感想箇条書き。

  • ことばの説明

 主人公は言葉が通じるようになる技術によってレダムの人々と会話ができるようになる。いわゆるホンヤクコンニャクみたいな便利道具。しかしながら、文化が違うがゆえにうまく訳せない事案がちょくちょく表現される。「彼」「彼女」は両性具有の人々に合う単語が存在しないとか。  

 実際、英語と日本語でもそういった課題に直面するかと思う。当然の報いふさわしいデザートが可笑しいのは、どちらもジャスト・デザートであるからであって、日本語ではさっぱりなように。

 これをちゃんと表現してるのが面白い。会話におけるニュアンスの難しさとか、伝わらないジョークとか。

  • 客観的でいられない

 あとがきにはこう書かれている。

セックスに関しては誰も客観的にはなれないのだ。ことにそれが、ある種の規範から外れている場合には。

これがおそらく、物語の主旨で、ストーリーの核となる部分。セックスと宗教は切っても切り離せない関係であり、ゆえに客観的に考えることができない。 男女の差など類似にくらべたら微々たるものなのに、切っても切れないものとして存在している。

それがなかったら?自然淘汰的に、その差が失われたならば理想的なのではないか。

  • 愛の話

 「ヴィーナス・プラスX」はセックスとジェンダーの話であると同時に、愛の話だ。主人公チャーリーは元いた世界にいるローラに思いを馳せる。それが、彼の原動力になっている。だからこそ、終わり方は少し皮肉っぽい。

ネタバレを避けて書いたら中途半端な感じになってしまった。 1950~60年の世相を反映した作品、にもかかわらず今でも十分に考えさせられる作品になっている。

活字を駆使した物語<死の鳥>

読んだ本感想。

ハーラン・エリスンの「死の鳥」を読みました。

タイトルと表紙でどれを読むか決めてしまう人間です。死の鳥、カッコいい、読もう、です。

しかしながら、この本、すごい。

めちゃくちゃな作品ばかりである。タイトル通り、活字を駆使している。

太字や斜体やパンチングテープ(!)を駆使している。ラノベでみたことあるような紙面の使い方を、60~80年代のSF小説でしているのだ。

内容もすごく挑戦的。アイデアが抜きん出ている。


「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」

AMというコンピューターに閉じ込められた主人公たち、という今で言うディストピアもの。 パンチングテープで会話するAM、というのがなんとも60年代ぽい。

「死の鳥」

いくつもの場面・時間が同時並行する物語はよくみるが、それを読解問題のテストに見立てて描写する作品はみたことがない。繋がりのないようにみえる文章どうしが、これまた途中に挿入される問題文によって、繋がっている。 『創世記』の<蛇>を再考する発想がすごい。

「ジェフティは五つ」

タイトル通り!タイトル通りすぎて清々しい! 昔を懐かしむ気持ちは誰にでもある。でも今は むかしよりずっとよくなった。 その切なさ。 ジェフティが永遠に五つならば、主人公ダニィは彼に会うたびにその時代に戻れる。


……と、いったように、イデアというSFの面白さが存分に味わえる短編集だった。

SFっていいね。

読んだ本<あまたの星、宝冠のごとく>

定期的にインプットが不足してる気がして、そのたびに模索する。

今回は本を読みたくなって図書館へ。

選んだのは分厚くてインパクトのあるタイトル、あまたの星、宝冠のごとく

作者ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの作品「いっしょに生きよう」は👇のアンソロジーで読んだことがあった。

しかし、実は女性であることを隠して創作活動をしていたとか、海外ドラマの主人公みたいな経歴(アメリカ軍・CIA)だとか、そういうことは全く知らなかった。クセが強い人物だ。

そして読んでみると、これまたクセの強い、独特の世界を表現する作品ばかり。

「地球は蛇のごとくあらたに」なんかは一番やばくて、簡単に言えば"地球とセックスしたくて仕方ない少女"の狂った話。

そこらの"マニアック"なセイヘキとは比べ物にならない。すごく狂っている。それもまた文学。

「肉」は"そういう"単語・表現が全く出てこないのに、中盤あたりで物語の不条理な世界観が分かってしまう、理解してしまう自分が恐ろしくなる作品。

食肉が高級品となった世界。妊娠中絶を禁止された世界。貧しい女性はやむなく子供を養子縁組センターに預ける。

理解してしまう読者に対して、なにも知らない女性たちの描写が続く。 読んでて苦しくなるように、感情を揺さぶってくるのがズルい。


とまあ、クセの強い作品を挙げたが、他の作品は童話チックなものからファンタジーなものまで様々。 どれも読んでいてすごく新鮮な気持ちを味わえる。

自分が気に入った作品は「アングリ降臨」と「死のさなかにも生きてあり」。

「アングリ降臨」 は異星人とのファーストコンタクトもの。けれども、その異星人たちが連れている「神様」が地球人が信仰している(目に見えないはずの)神様にそっくり、という不思議な設定。 アングリはAngelから来た名前ってところがストーリーのミソ。

「死のさなかにも生きてあり」 は死後の世界を描いた作品。解説を読む限り(死期が近づく)作者自身の死生観を描いている、ともとれるようだが、それ抜きにしても面白い。主人公が「死のう」と思って本当に死ぬまでの導入部分がイカしていて好きだ。 天国だとか地獄を信じていない人たちが行き着く場所はどこだろう?という意外にも思いつかないシチュエーションをうまく描いている。


昨今ジェンダーについて様々議論がされている。ディプトリー・ジュニアの作品は作者の"思想"が伝わってくるものが多い印象を受けた。女性の苦しみとか、格差だとか。

今だからこそ、余計に深く考えさせられる作品になっているかもしれない。

小説とは、はっきりと伝えたいこと・主題が書いてあるわけではない。 だから、作者の思想が文章から感じられる作品は面白い。

感想<君の名前で僕を呼んで>

世間はGW。色んな映画が続々公開されてますね。休みの日を映画館で過ごすって素敵ですよね。

前から気になってた「君の名前で僕を呼んで」をみに映画館へ行きました。

はじめて予告をみたときから、絶対みると決めていたので。

cmbyn-movie.jp

雲田さんの描き下ろしイラストも足を運ぶきっかけになっていたりする。

natalie.mu

あらすじを読めばわかってしまうかと思いますが、BLないしブロマンス好きにはたまらないモノ。 17歳の少年エリオと24歳の大学院生オリバーの、ひと夏のはなし。

ラブストーリーと言ってしまえばそうなんだけど、思春期の迷いとか、人生観とか、そういったものも感じ取れる作品だと思う。

なぜかといえば、すごくハイコンテクストで行間が開いてる作品だから。

台詞回しも分かりやすい訳ではないので、雰囲気を楽しむ映画と捉えることもできる。

でも、登場人物の生い立ちやアクセサリー、英語とイタリア語の使い分けなど、細部まで作り込まれている。ワンシーンの情報量はすごく多い。

だからこそ、本編を見たひと全員がそれぞれ、違うものを感じ取れるはずだ。

気になったひとはぜひみてほしい。

<以下、ネタバレ含みます>

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交流がしんどくなるだろう未来の私へのポエム

前置き (この記事の趣旨)

>>しんどい<<

  • このしんどさを鎮めるために考えを吐き出そう
  • ポエムを書こう


ツイッターってしんどい。

たびたびこの感覚に襲われる。

生理前でイライラしてるんだろ。その意見(というか自分の内なる反論)はご最もで、「ツイッターやめたい」と思う感覚が過ぎ去るたびにそういう結論に至る。

でも「しんどい」の度になんでこんなしんどくなるのか、堂々巡りに考えふけるのは非常に非生産的だ。

ここに書き留めておけば「あ、そうだったねしんどくなるのはこういう理由だもんね」となって次のステップとか他のタスクに進める気がする。

  • なんで自分語りが好きなのか
  • 生理前に私が考えてしまうクソみたいなこと
  • なんで「思う」「気がする」を連呼してしまうのだろう

は今後書いていきたい


ツイッターってハイブリッドだ

ツイッターはなんでも呟ける。

意見でもなんでも、法にふれなければ(ネチケット的なのは暗黙の了解ぽいが)いまんところ何呟いても大丈夫。

ツイッターは簡単にみられる。鍵アカウントじゃなきゃ誰の発言でもみられる。

それがツイッターのアドバンテージなんだと思う。

しかしながら簡単に呟けるので「私はこうだと思う」という意見と「私はこうだったらいいなあと思う」という希望的観測と「私はこうあるべきだと思う」という強めの主張が玉石混交している状況だ。

さらに玉石混交を簡単に見ることが出来る。それに対して簡単に、素早く言及できる。

だから希望的観測強めの主張で言い返したり、強めの主張意見とが対立したりする。力関係が成り立ってない議論がツイッターっていう不特定多数の大きな枠組みで行われる。いわゆる「学級会」的な事象はその例だと思われる。

私はそれが苦手なんだと思う。というか不快に近い。

結論の出ない話とか、「考え方は人それぞれ」みたいな結論になるでしょって話を永延と垂れ流されるTLをみてるとイライラしてしまう。

「私はこうだと思う」ならいいんだけど、その意見達を並べて「ほら私の意見が正しい」と強めの主張を正当化するのはちょっと違う気がする。(私にとって「ちょっと違う」と感じる類の議題はそもそも正しいとか正しくないとかの話ではない場合が多い、ツイッターで行われる「学級会」とはそういうものかもしれないが)


まあ何が言いたいかって言うと、強めの主張は短い文で見るのには向いてない。

これは次のトピックにも繋がってくので一旦話題を切る。


ツイッターってインスタントだ

  ツイッターは短い文章しか呟けない。

だから短い中に意見がギュッと押し込められている。

つまり、強めの主張はより過激な発言になる。要約すると「自分と逆の主張やつ死ね」になる、みたいな。これは極論だけど、基本的に感情が剥き出しになる。

長文で感情剥き出しにするのも不快だけど、短い文の方がインパクトは大きい。

しかも、つぶやき程度の文字数ならば良く考えずに直接アウトプットされたような発言もできる。炎上するような発言とか。

ひとつのつぶやきはそのユーザーの考えのある断片でしかないのに、それが総意のような扱いになる、というのは非常に難しい問題だ。

時間とともに考え方は変化するし、よく良く考えたらこれ間違ってるな、と訂正することもある。にも関わらず間違ってる断片に注目されてしまうことだってある。

簡単に呟けるからこそ、簡単に呟けない、みたいな苦しさを時々感じてしまう。

今この瞬間の考えっていうのは(例え間違ったものだとしても)のちのちに繋がるんだから積極的にアウトプットしたいんだ。

それをツイッターでやるべきかどうかは別として。

ツイッターってそういう場だよね?と考えてしまうのだ)


マウンティングをマウンティングする破綻

これはもはやツイッター関係ない話題。

マウンティングは語源通り、所有物で互いのランク付けをする、的な言葉。最近になって流布したのかな、おそらく。

本能的な行動だし、マウンティングなんて行動自体は(男女関係なく)昔からあっただろう。

でも何故こんなにも注目されているのか。インスタ映えとかで所有物じゃないものでマウンティングできるようになったからだろうか。

今までは学歴とか、会社とか、夫とかネットじゃない場所でのマウンティングはあったはずなので、その悪しき考え(理性的ではなさげな考え)がインターネットにやってきてしまったなという気持ちはある。

マウンティングが悪いとは言わない。誰だって比較して安心感や焦りを覚えるものだし。相乗効果だってある。民主主義が競争で成立ってる以上比較は否定出来ない。


しかしながら、なんとなくモヤモヤすることがある。

マウンティングしている状況を指して「こいつらマウンティングしてるわー」みたいなマウンティングする奴は一体どういう気持ちで発言してるのだろう?という点だ。

「マウンティングしてるわー」ってつまり「マウンティングしてない自分カッケー」的な気持ちなのだと解釈してるのだけど、その気持ちってつまりマウンティングじゃない?

マウンティングをマウンティングを以て否定するって、すごく論理が破綻しているんじゃなかろうか。

マウンティング≒ヒエラルキーの比較だと思っているので、比較してる時点で破綻してる気がする。


じゃあマウンティングを否定することは不可能なのか?

……この話は論点と外れてるから深く踏み込まないことにする。


結局どうすればいいんだ?

散々書いておいて明確な結論には至れない。

でも気づきはあった。

ツイッターって

  • 情報めっちゃ流れてきて
  • 比較するものがいっぱいあって、
  • マウンティングの考えに落ちてしまうことがあって、
  • ストレスフルになる場合がある

ってことだ。


そりゃそうだ。私以外と比較する前に自分の根っこがしっかりしてないと折れてしまう。

たぶん、ツイッターしんどいってなるのは「自分の芯がぐらぐらしてる」時なんだろう。

やはり、そういう時は1度自分だけになって、自分を振り返る必要がある。

ツイッターとかSNSとか、外からの情報を一旦閉じて、見つめ直してみよう。


そしてこんな風にまた、ポエムを書こう。自分の芯を思い出そう。


アウトプットって良いね。

良い映画は良い映画<泥棒役者>

色んな映画を観る。

観るたびに「よかった」「悪かった」というざっくりとした感想が蓄積される。 自分の判断基準は今まで観たもので成り立っている。

そんな感じで、良い映画の経験がまたひとつできた嬉しさを共有したい。

泥棒映画みました

dorobou-yakusha.jp

公開初週にみたのは久々かもしれない。でも丸山さんの単独初主演作品を応援したい、その気持ちで劇場に足を運んだ。

なんであれ、公開直後に足を運ぶのは大事だ。

内容ネタバレなしの感想

  • ストーリーがすごく良い。わかりやすいのに面白い。単純なのに深い。
  • 主題歌「応答セヨ」が素晴らしい。主題歌の役割として。
  • エンドロールまで良い。最後までみてから帰ろう。
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