理想に過ぎないと知りながら、理想郷を思い描く<ヴィーナス・プラスX>
シオドア・スタージョンのヴィーナス・プラスXを読みました。
- 作者: シオドアスタージョン,Theodore Sturgeon,大久保譲
- 出版社/メーカー: 国書刊行会
- 発売日: 2005/05
- メディア: 単行本
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主人公チャリー・ジョーンズが迷い込んだ「レダム」は両性具有の人々が暮らす世界。 彼は元の場所にもどるために、「私たちの文明を評価してほしい」という条件を快諾するが……。
というのが本筋のストーリーなのだが、不思議なことに同時並行で現代のアメリカ家族の物語も描かれている。二つの物語はリンクしてる訳ではないが、本編のストーリーの見方に大きく関わってくる。
以下、感想箇条書き。
- ことばの説明
主人公は言葉が通じるようになる技術によってレダムの人々と会話ができるようになる。いわゆるホンヤクコンニャクみたいな便利道具。しかしながら、文化が違うがゆえにうまく訳せない事案がちょくちょく表現される。「彼」「彼女」は両性具有の人々に合う単語が存在しないとか。
実際、英語と日本語でもそういった課題に直面するかと思う。当然の報いとふさわしいデザートが可笑しいのは、どちらもジャスト・デザートであるからであって、日本語ではさっぱりなように。
これをちゃんと表現してるのが面白い。会話におけるニュアンスの難しさとか、伝わらないジョークとか。
- 客観的でいられない
あとがきにはこう書かれている。
セックスに関しては誰も客観的にはなれないのだ。ことにそれが、ある種の規範から外れている場合には。
これがおそらく、物語の主旨で、ストーリーの核となる部分。セックスと宗教は切っても切り離せない関係であり、ゆえに客観的に考えることができない。 男女の差など類似にくらべたら微々たるものなのに、切っても切れないものとして存在している。
それがなかったら?自然淘汰的に、その差が失われたならば理想的なのではないか。
- 愛の話
「ヴィーナス・プラスX」はセックスとジェンダーの話であると同時に、愛の話だ。主人公チャーリーは元いた世界にいるローラに思いを馳せる。それが、彼の原動力になっている。だからこそ、終わり方は少し皮肉っぽい。
ネタバレを避けて書いたら中途半端な感じになってしまった。 1950~60年の世相を反映した作品、にもかかわらず今でも十分に考えさせられる作品になっている。